日本茜とは

 日本茜は、本州、四国、九州などの山野に自生するアカネ科の蔓性多年草。輪生する葉はハート型で愛らしく、茎は四角形で小さな棘があり、周囲に絡みつきながら成長します。黄赤色の太い根は、古くから赤(茜色)の染料として利用されてきました。止血剤としても有名です。

 この日本茜の他にも、セイヨウアカネ Rubia tinctorum、インドアカネ Rubia cordifolia L.という大きく分けて3種類の茜があります。セイヨウアカネとインドアカネは染料植物として栽培されており、染料店に行けば普通に手に入れられます。しかしなかなか流通していない「日本茜」は、手に入れるのが困難といわれています。

 入手困難な「日本茜」でも、獣害が少ないというメリットもあるので、現在では「放棄農地で育ててみよう」という動きも見られます。

日本茜を育てたい!人集まれー
京茜を手に入れたい人はこっち!

の一年について

日本茜は、一年に一度だけ冬に収穫をすることができ
美山では、11月~12月頃にかけて収穫作業を行っています。
日本茜が育って植物染料になるまでの季節の流れを紹介します。

日本茜は、一年に一度だけ冬に収穫をすることができ、美山では、11月~12月頃にかけて収穫作業を行っています。日本茜が育って植物染料になるまでの季節の流れを紹介します。

種蒔きや株分けに適した季節で、茜は四月~五月に発芽をします。

少し成長した茜を、増やすために挿し芽をします。

秋には、よく根の回った苗を定植します。

年末に近づくころ、茜根の収穫期がやってきます。

収穫した根をよく洗い、染料として使えるようにします。

いよいよ工芸などのモノづくりが出来ます。

の歴史ついてもっと詳しく

 日本茜の古~い歴史から現代までの紹介や、茜を使った日本の色の解説に、日本茜の関連施設の情報など、「茜」にまつわるアレコレはここからどうぞ。

弥生時代(紀元前 400 年頃)

吉野ケ里遺跡から出土された透目絹の中に、一見して染色されているものが幾つかあり、 前田雨城氏らの研究グループが分光蛍光光度計による測定と解析を行った結果、日本茜 と貝紫が検出されました。これにより、赤と紫に染められた透目絹が存在したことが確 認されています。

弥生時代(200 年~300 年)

『魏志倭人伝』に邪馬台国の女王卑弥呼(2~3世紀)が魏の王に献上したものの一つに「絳青縑」 ( 赤や青の絹布)と記述があり、「絳」は「あかきねりぎぬ」即ち『茜染の絹布』であることから、 この時代にすでに日本茜で緋色を染める技法が完成していたと言えます。

飛鳥時代(700 年~710 年)

文武天皇が即位した 700 年頃、唐(現在の中国)の律令制に習って日本にも中央集権国家が成立します。日本の律令 制において、官人に付与する位階に相当する服色が決められていて時代により若干変化するが概ね茜色系は上位2位に 制定されていました。 孝徳天皇の冠位に見られる「真緋」、持統天皇の「緋」、そのあとの「浅緋」なども、いずれも日本茜の根を染料として 染められたものであり、紫根で染める紫色が最高位でその次に緋色系(日本茜染め)が高い位の色に制定されていたよ うです。

奈良時代(700 年~710 年)

7世紀後半から8世紀後半にかけて編まれた日本に現存する最古の和歌集です。その中に、茜、茜草、赤根、 安可根等で表現され人気のあった枕詞として登場します。 代表的な歌では、「あかねさす紫野行き標野行き野守は見ずや君が袖振る」額田王作があります。 解釈「紫草の栽培地や、天皇狩場として標 ( しめ ) を張ったその野を行きながら、そんなことをして。野の 番人が見るではございませんか。あなたが私の気を引こうと袖を振っておられるのを。」

平安時代(905 年~927 年)

醍醐天皇の命により 905 年編集に着手,927 年完した養老律令の施行細則を集大成した法典「延喜式」に、日本 茜に関する記述が残されております。 当時は染色はすべて植物による草木染めで、階位によって定められた服色があり、それを染めるための材料の数 量がきっちりと示されていました。いわば、当時の標準色を染めるためのマニュアルです。なお、薪などの燃料の 分量も書かれてあります。おそらく火力や温度の調節のためであると考えられます。 当時は着物用の絹反物を 2 反染めるのに、膨大な茜(赤根)が使われていたようです。

平安時代末期

武蔵御嶽神社所蔵の国宝「赤糸威鎧」は、著名な鎌倉武武蔵御嶽神社所蔵の国宝「赤糸威鎧」は著名な鎌倉武士である畠山重忠が奉納し たと伝わる平安時代後期の、日本を代表する大鎧です。 この赤糸縅鎧の赤糸は往時の植物染料の茜で染められ今も鮮やかな赤色を保っています。しかしその技術は伝承されず、明治 36 年 (1903) の補修では、鉱物染料で染められ、その部分は現在退色しています。 深緋(こきひ)浅緋(うすきひ)の緋は茜で染めた色を指すが、茜の赤色色素であるプルプリンを高純度に精製した色ですが、蘇芳の出現 により安易に色を出せることで茜での染めが途絶えがちになりました。

江戸時代末期(1853 年~1867 年)

1853 年ペリー率いる米国艦隊の黒船来航、翌 1854 年には、日米和親条約締結に至りました。 1854 年(嘉永 7 年)3 月の日米和親条約調印後、日本船を外国船と区別するための標識が必要 となり、日本国共通の船舶旗(日本惣船印)を制定する必要が生じました。島津斉彬が日本の船 印(船に掲げる旗)として日の丸を幕府に進言したのですが、薩摩藩には日の丸を赤く染める技 術がなく斉彬は苦慮しました。そこで大叔父の福岡藩藩主・黒田長溥に相談したところ、福岡藩 内(現在の筑穂町)で古くから伝わる「筑前茜染め」があることを聞き、福岡藩の穂波郡山口村 茜屋に家臣をつかわして古くから伝わる茜染めの技術を修得させ「日の丸」を染めさせました。 その後、幕府は 1854 年 8 月 4 日(嘉永 7 年 7 月 11 日)、「日の丸」を日本国総船印に制定しました。 翌 1859 年(安政 6 年)、幕府は縦長の幟(正確には四半旗)から横長の旗に代えて日章旗を「御 国総標」にするという触れ書きを出しました。日章旗が事実上「国旗」としての地位を確立した瞬 間です。 筑前茜染は、日本茜の根を染料とする染め技法で、江戸時代初期、筑穂町茜屋地区の染物師が 偶然発見し、「黒田藩の秘宝」として幕末まで守り伝えてきたものでした。

現代(2018 年~)

日本茜や藍など植物染料を栽培を行う農家と、京絞り、染色家などの伝統工芸家がタッグを組んで、浄瑠璃人形の復元に挑む。

この取り組みは、獣害の少ない「日本茜」で日本の農地保全を進めていきたい。という気持ちと、伝統工芸の手業を伝承するために行う「ものづくり」で「伝統文化」を支える取り組みです。

【参加者募集中】三色の染料が採れる畑を作ります